okanの手紙

3人の大切なこども達に遺したい言葉やメッセージ+時々あなた達の神語録。あなた達や、これを読んだ誰かの今を少しでも照らせたらokanはうれしい。

#78 共感も大切だけど、人は「可哀そう」と言われると、可哀そうになる。

前にも書いたけれど、重松清作の「とんび」に出てくる言葉、母親を亡くした少年アキラにかける「お前は可哀そうな子なんかじゃない!」という言葉が、okanは大好きだ。

 

本人がなんとも思っていないことでも、周りから「可哀そう」「可哀そう」と言われ続けると「自分は可哀そうなのか」と思ってしまう。

 

逆に「可哀そうじゃない!」と強くはっきりと断言してくれる人がいれば「そうか、私は可哀そうじゃないんだ」と思えることができる。

 

「可哀そう」と同情するのは簡単だ。

確かに共感することも大切だろう。

 

でも、無責任な同情や共感より、

たとえ根拠がなくても「可哀そうじゃない!」と強く言い切ってくれる方が、

この先、その人は人生を悲観せず、前向きに幸せに生きていけるのではないだろうか。

「可哀そうじゃない!」と伝えることは、最大の愛だと思うのだ。

 

だから、okanも言い続ける。

「大丈夫!大丈夫!あなたは大丈夫!」と。

迷いなく、強く言い切って伝えることが、okanなりの愛なのです。

#77「やりたいこと」「やるべきこと」「やれること」

Webで見つけたアドラーのことば。

世の中には、

「やりたいこと」「やるべきこと」「やれること」の3つがあるらしい。

 

okanは今まで「やりたいこと」「やるべきこと」にフォーカスしていた。

 

子育て真っ最中の超忙しかった頃、

「やるべきこと」が「やりたいこと」になることが大人の成熟だ、と考えていた(というか、思い込もうとしていた)。

 

子育てが少し落ち着いてきた頃、

「やるべきこと」ばかり追いかけていると、自分の「やりたいこと」に対するアンテナが鈍くなり「やりたいこと」がわからなくなる。自分を見失わないよう「やりたいこと」を大切にするべきだ、と思っていた。

 

そして現在、思考がぐるりと一周まわり、

「やるべきこと」がある=誰かに必要とされている、ということ。

「やるべきこと」がある人間は幸せだ、などとぬかしながら、

「やるべきこと」派になろうとしていた。

 

そんなokanにとって、突然、今までの価値観や思考とは全く異なった方向から光が差し込んできた。それも、かなり鋭く。

それが「やれること」だ。

 

「やりたいこと」も「やるべきこと」も、その中心に現在はない。

その中心にあるのは、未来だ。

でも「やれること」は違う。その中心にあるのは、現在だけだ。

能力・時間・気力等、すべての自分が持っているリソースを受け入れ、

「やりたいこと」「やるべきこと」に囚われない。

今「やれること」を一生懸命やる、一生懸命生きる。

 

結局は、今、しかないのだ。

明日は、来るかどうかもわからない。

だから、

「やりたいこと」や「やるべきこと」にフォーカスしない。

今「やれること」を精一杯やる。

そんな「今」の積み重ねが、きっと人生に輝きを与えてくれる。

 

「やれること」をやる毎日を積み重ねて生きていこう。

そう思ったokanなのでした。

 

#76 「mement mori」と「末期の眼」

「mement mori(メメント モリ)」

ラテン語で「死を思え」という意味。

死を意識することで、今を大切に生きよ、という教え。

 

「末期の眼(まつごのめ)」

最近読んだ本、「善医の罪」(久坂部羊 2020年 文藝春秋)に書かれていたことば。

死にゆく人が、見るものを特別美しく感じること。

例えば、今まで普通に見えていたものが、色鮮やかに見える、

小鳥のさえずりが、急に透き通って聞こえる、など。

 

どちらも、とても大切なことだとokanは思っています。

 

忙しい日常、常に死を意識して生きているわけにはいかない。

常に死を意識していたら、やらなあかんこと、終わらへんやん!と思う。

 

でも、ふと立ち止まった時や、

一日の終わり、

ちょっとだけ、「mement mori」を意識してみてほしい。

死は必ず自分自身にも訪れること、

そして、その死が訪れるのはいつなのか、

それまでどれだけ時間があるのかは誰にも分らないこと、

想ってみてほしい。

 

そうすれば、末期の眼、

この世界がきらめいて見えてくるはず。

 

空に向かって伸ばした自分の手の指先が、

なんだか愛おしく感じるかもしれない。

 

ノートに書き綴った自分の文字が、

なんだが愛おしく感じるかもしれない。

 

今日、今生きている自分自身が、

とても愛おしく思えるかもしれない。

今を大切に生きよう、そう思えるかもしれない。

 

そんなふうに思うokanなのでした。

 

#75 量は質を上回る

若い頃、部活や勉強でよく言われいた。

「繰り返しやる」。

 

okanの年になっても(残りの限られた人生を意識するようになっても)、

やっぱり「繰り返しすること」=「絶対的な量を増やすこと」 って、

とても大切だと思う。

 

もちろん、質も大切。

やみくもに数をこなせばいい、ってものじゃない。

何も考えず素振りをしても、野球は上手にならないだろうし、

何も考えず勉強しても、偏差値は上がらないだろう。

 

でも、成果は「質×量」の積で決まる。

質にこだわりすぎて、前に進まないくらいなら、

量を重ねることって、とても大切だと思う。

 

だから、悩んだり、出来なかったり、わからないときは、

とりあえず、やってみて、繰り返して、絶対的な量を増やしてみてほしい。

 

そこで、出会える答えや、見えてくる世界がきっとあるから・・・。

 

そう思いながら、こうやってokanは拙い文章を綴り続けています(笑)

まだ、答えにも新しい世界にも出会えていないけれど、

ことばを綴るのはシンプルに楽しい、

そう思うokanなのでした。

 

あ、「ことばを綴るのが楽しい」って思えるのは、新しい世界、出会いだよね。

なんだ、もう出会えてるじゃん(笑)。

 

 

 

#74 教養や知識は人生を楽しくしてくれる

世の中には、

「役に立つか」の基準で判断すれば、「役にはたたない」ものがいっぱいある。

 

仕事に必要な知識、生活する上で必要な技術、

それらは、誰が見ても「役に立つもの」でとても分かりやすい。

 

でも、

教養や知識、

直接人生の役に立たないかもしれないが、

確実に人生を楽しく豊かにしてくれるものが

世の中にはたくさんある。

 

大切なのは、

少しでも興味を感じたもの、出会ったものは、

とりあえず飛び込んでみる、やってみる、深めてみることだと、

この年になると思う。

 

興味を感じる、出会うというのは、

ある意味「縁」だ。「奇跡」だ。

 

教養や知識は、

何気ない日常を、彩り豊かに楽しいものにしてくれる。

他の人が何も感じないことでも、

感動したり、感激したりできる。

 

そうやって、自分自身で自分の人生を楽しめる人になってほしい、

そう思うokanなのでした。

 

大変な時、自分を支えてくれるのは、過去の頑張った自分

最近、朝の通勤時、保育園に行くのであろう幼い我が子と一緒に通勤している若いパパやママをよく見かける。

最近増えたというより、私の認識にたくさん入り込んできた、という表現が正しいのだろう。

 

自分の15年前を思い出しながら、「暑い中、ホント大変やよね…。でもいつか、その日々が懐かしく愛おしくなる日が来るから…。だから頑張って。」と応援したくなる。

 

私が子育て真っ最中の当時は、ホント肩肘張って、子育てと仕事の両立に奮闘していた。

まぁ、おかげで、3人娘は親に幻想を描くことなく(笑)、すくすくと現実的に成長してくれた。

最近は、我が子達は友人と話す中で、よそ様の親が子どもに対する献身的な愛情や時間の注ぎ方に驚く時もあるようだが、すでに分別つく年齢になった我が子は、今さらこの親にそれを求めることはない。

ある意味俯瞰して、等身大の我が家の姿を受入れてくれている(と信じている)。

感謝感謝である。

と同時に、そんな子育てをした自分に自画自賛(笑)。

 

とまぁ、話がそれてしまったが、

とにかく時間がなくて、走り続ける毎日を送っていた日々は、

確実に今のokanを支えてくれている。

あの時の日々を思うと、

どんな忙しさでも乗り越えられる!大丈夫!と思える。

 

と同時に、時間的に余裕が出てきた今の日々に、

心から感謝できる。

 

だから、大丈夫。

授業や実習や塾や部活やバイト・・・、あなた達は今本当に忙しい日々を送っている。

 

でも、この忙しく過ごした日々は、

未来のあなた自身を、必ず支えてくれる。

そう、

大変な時、本当に支えてくれるのは、

親でも友達でもなく、過去の頑張った自分だけだとokanは思う。

 

だから、大丈夫。

今の「大変」を乗り越えたあなたの未来は、輝きしかないから。

だから信じて、前に進んで。

 

でも、本当にしんどい時は、

いつでも休んでいい、逃げていい、投げ出していいから。

休む勇気、逃げる強さ、投げ出す決断。

 

それも含めて、人生の上で大切なこと。

 

すべてまとめて受け入れて、あなただけの人生を楽しんでほしい。

そう願うokanなのでした。

 

知っている語彙の範囲中でしか思考できない

先日読んだ本に書いてあった言葉。

 

人間は、知っている語彙の範囲内でしか思考できない。

 

知っている言葉の数は、そのままその人の思考の細やかさに結び付く。

言葉の粒子の細かい人は、思考の粒子も細かくなる。

 

たくさんの言葉を自分の中に積み重ねて、

粒子細かく思考できる人になってほしい。

 

そして、その言葉を、口に出して、

誰かに伝えてみてほしい。

 

そんなふうに考えるokanなのでした。